DIARY :: AROUND THE CORNER :: 20120403001
個人的「デミング博士の再発見・再評価」

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今回は、ここ3回のエントリーに(といっても、前回エントリーでさえ半年以上前なのですが)、偶然というか必然というか、
デミング博士W. Edwards Deming)」という共通項が見えてきたので、そのことについて書いています。(*1)

前々々回「日本のIT産業における「失われた20年」の実相」を書いた時に、小さな点ですが、どうにも気になっていたことは、ジェフ・サザーランド氏 が、アジャイルソフトウェア開発手法としての「スクラム」を考案するに当たって、次のように語っておられることでした(『重要なテクノロジーは10名以下のチームで作られた ~ Innovation Sprint 2011(後編)』 より)。
日本の製造業にデミング博士の論文が与えた影響」も検討した。
その時点では、私は、これは、サザーランド氏個人の戦略的着眼なのかと考えていました。しかし、デミング博士に興味を持ち、彼について情報収集している過程で、
米国では 1980 年頃から、デミング博士の再発見・再評価という、国や産業界全体を挙げての、非常に大きなムーブメントが生まれた。
という歴史的事実を認識するに至り(「何を今頃」とのお叱りを受けるかもしれませんが)、サザーランド氏の上記のような視点も、恐らくそのようなムーブントを背景に生まれてきたものであろう、と考えるに至りました。

この、米国における デミング博士の再発見・再評価 に関しては、私が知る限りでは、デミング博士の筆頭格の助手として、米国でのデミング博士のコンサルティング活動を補佐された吉田耕作氏(青山学院大学大学院教授)の著書『国際競争力の再生』『ジョイ・オブ・ワーク』の冒頭部分や、「デミングの知恵、ゴールドラットの理論」という副題の付いたD. レオポール氏とO. コーエン氏による共著『二大博士から経営を学ぶ』の終章などに概括されています。この点について簡単にまとめると、以下のようになります。
米国では、(1970年代後半頃から)80年代初頭にかけて、日本の製造業の台頭の要因を探る過程で、経営学においてデミング博士の再発見・再評価が始まった。
それ以後、数多くの米国企業や中央・地方の米国行政機関などがデミング博士の哲学・理論を取り入れたり、実際の指導を受けるなどして再生した。
1987年には、日本の「デミング賞」に倣い、「マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MB賞)」が設けられた。(*2)
また、同じく1987年に、デミング博士自体も、その功績により、技術分野においては米国で最高の栄誉とされている(日本版 Wikipedia による)「アメリカ国家技術賞National Medal of Technology and Innovation)」を受賞した。(*3)
さて、『二大博士から経営を学ぶ』の終章は、デミング博士と ゴールドラット博士 の歩みを概観していますが、その中に、1970 年代にリコーが「デミング賞(Wikipedia公式サイト)」の受賞を目指して取り組む様子が、挿話的に載っています。(*4)前々回のエントリー「「GXR MOUNT A12」に込められた RICOH の心意気」で書いたように、私は、「GXR MOUNT A12」という製品を切っ掛けに、経営面・マーケティング面で、リコーという会社に興味を抱いたわけですが、そのリコーが、デミング賞の受賞を目指していた(実際に、1975 年に「デミング賞実施賞」を受賞)ということを受けて、特に、リコーが部門を表す用語として「区」という呼称を用いていることに関して(当該エントリーの追記*24)そこには、リコーがデミング賞に取り組む中で取り入れたであろう考え方が反映されているのかもしれない、と感じました。もちろん、そうではない可能性も大いにあり得るわけですが、部門の呼称として、縦割りの組織図をイメージさせる「部」「課」などではなく、全体の中の一部区域を表す「区」という言葉を用いることは、「全体観を重視する」「協調を重視する」というデミング博士による考え方と、意味的には非常に良く整合しています。その点で、「GXR MOUNT A12」のような製品が生み出された要因の1つに(GXR 自体は「デザイン区」の発案とのことです(参照))、リコーにおける、デミング的考え方に基づく経営組織体制・運営もあるのではないかという想定を持つようになりました。

また、産学連携に尽力されておられる 武田修三郎氏(早稲田大学大学院教授・総長室参与)は、著書『デミングの組織論』において、氏の言う「アメリカの奇跡の変革」と「日本の信じられない閉塞感」を根底的に繋ぐ「ミッシング・リンク」として、「デミング哲学」「デミング・システム」を位置付けておられます。私は、もちろん、氏ほどの深い考察をしていたわけではありませんが、前述の書籍に続いて、氏のこの著作を読み、私自身にも共通する問題意識として「なるほど、そうか」となりました。つまり、私は、前回エントリー「9.11から10年、3.11から0.5年」にて、
振り返れば、日本がバブル経済の頂点にあった頃には、世界においては、既に、20世紀的経済・社会から21世紀的経済・社会への移行・転換が始まろうとしていたようにも思われます。
と書いたわけですが、今となって、ようやく、それは、アメリカやその他の様々な国々での「デミング博士の再発見・再評価」ではなかったのか、と思い至ったわけです。

武田氏のメッセージは、経営理論的には、タイトルが示すように、
「モノ作り(アウトプット)論」としてのデミングではなく、「組織(プロセス)論」としてのデミング
ということになりますが、「はじめに」の中の次の一節にその考え方が要約されています。
戦後の日本がはぐくんだ品質管理は、いわゆる製造上の一技法ではなく、あたらしい組織への入り口だったのである。・・・それこそ製造業だけでなく、あらゆる企業、政府、研究所、大学、政党といったところの組織革新に応用でき、また、社会のあたらしい規範としても最適なものになる。
1980年前後に始まる、米国における「デミング博士の再発見・再評価」は、デミング研究者によると「ウェスタン・ルネサンス」とも評されるとのことであり(『二大博士に経営を学ぶ』より)、氏の考えも、同様の射程を持ったものと言えるでしょう。

同書には、主に 1990 年代において、米国などで如何に大きな「デミング博士の再発見・再評価」が進行していたのかが、武田氏の直接的な体験や様々な人脈との交流に基づき、具体的な企業名、人名、書名などを挙げて詳述されています。前述の書籍などとも併せて考えると、そのムーブメントは非常に大きなものであった(ある)ように思われますが、一方で、それに関する日本での一般的な認識が(もちろん、私も含めて)あまりにも欠如していることが非常に不思議でなりません。日本では、デミング博士というと、「戦後の日本企業に統計的な管理手法を伝授・指導してくださった方」というイメージで、「モノ作り」「過去のこと」という先入観が強すぎて、その真の姿を認識することができなくなっている、ということなのでしょうか。

吉田氏は、1986 年に、『日本の生産性の根源 - 競争と協調』という論文を師匠であるデミング博士に送ったところ、博士から、即座に「この論文は米国を変える。米国は君を必要としている」という連絡をもらい、それ以後、博士のコンサルティングの補佐役を任ぜられるようになったとのことです。そして、博士がお亡くなりになる(1993年12月20日)直前までその役割を果たされた、とのことです(『国際競争力の再生』より)。しかしながら、その「推薦のことば」によると(池澤辰夫氏(早稲田大学名誉教授・元日本品質管理学会会長))、そのようにデミング博士のもとで米国の組織の再生に貢献された吉田氏が30数年ぶりに日本に拠点を移される際には、氏を受け入れようとする大学はほとんど無かったということです。そうであれば、日本の一般において、デミング博士が米国で果たされた貢献やその価値に対する認識が低いという現状も、残念なことですが、仕方がないということかもしれません。(*5)

ということで、最後に、『二大博士から経営を学ぶ』の翻訳を担当された三本木亮氏による重要な指摘を引用させていただいて、当エントリーのまとめとしたいと思います。三本木氏は、日本でも大きな注目を集めたI. ゴールドラット氏の著書『ザ・ゴール』の翻訳者でもいらっしゃいますが、デミング博士とゴールドラット博士の共通項として、お二方共に元来は「物理学者」である点を、次のように指摘しています。
・・・物理学者はどうだろうか。・・・自然界の現象の仕組み、つまりサイエンスを説いていくのが彼らの仕事だ。自然界の摂理をありのままに観察する能力が彼らには求められているのである。従来の伝統や固定観念といったものに囚われる必要などないのだ。いや、むしろ、そういったものから離脱し、新たな発見をしていかなければならない。ビジネスもサイエンスである。サイエンスであれば緻密に観察することで、その摂理を解いていくことができる。
この後、氏は「物理学者だからこそできた芸当ではないだろうか。」と続けて、二大博士に敬意を表されるわけですが、転換期の今、組織を経営するような立場の方はもちろんですが、中間管理職や現場の一人一人においても、そのような視点で物事を捉え直すことが求められているように思われます。個人的には、三本木氏の指摘のように、サイエンスとして経営や組織について認識を深め理論を構築してこられたデミング博士の哲学・システムについて、現代の企業・組織再生の鍵として、具体的にどのように展開できるのか(もしくはできないのか)、考えてみたいと思っています。(*6)



*1:本文中でリンクした、デミング博士についての日本版 Wikipedia ページにおいては、2012年04月03日現在、 「米国においては、デミング博士が亡くなる頃に、その認知度が高まり始めた」という主旨の記述がありますが、 私が把握している限りにおいては、本文中で取り上げた書籍などによると、 米国においてデミング博士の認知度が高まったのは、 1980年6月24日に NBC が放映した『If Japan Can... Why Can't We?』という番組が切っ掛けだったようです。 この番組は全米で 1400 万人が視聴したと言われ、 『二大博士から経営を学ぶ』によると、放映後も NBC に何千ものリクエストが寄せられ、 同局にとって最もリクエストの多い番組となった、とのことです。 

*2:『国際競争力の再生』によると、「マルコム・ボルドリッジ」という賞の名称は、 この賞を提唱した当時の商務長官の努力をたたえて、その名が付けられたということです。 また、『デミングの組織論』によると、 関西電力(1984年にデミング賞を受賞)と提携関係にあったアメリカのフロリダ電力は、 海外企業でありながらも1989年にデミング賞を受賞していますが、
同社のトップがこの挑戦の途上で米議会への積極的な働きかけをおこない、アメリカ版デミング賞といえる「マルコム・ボルドリッジ賞」を設けることにすすんだ
ということのようです。 

*3:デミング博士の名前は、リンクした日本版 Wikipedia のページには見当たらないようですが(2012年04月03日時点)、 本家の Wikipedia のページの受賞者リストには記載されています。 

*4:『二大博士に経営を学ぶ』によると、リコーがデミング賞に取り組むこの時(1974〜1975年頃)の様子は、 リコーと共同で事業を進めるために来日していたナシュア・コーポレーション(Nashua Corporation)の社員によって、 社長のウィリアム・コンウェイ氏にレポートされたとのことです。 そして、その約5年後、1979年3月6日に、コンウェイ氏はワシントンにおられたデミング博士に直接電話をかけ、 面会の約束を取り付けることになります。 これが、米国の大手企業における、デミング博士に対する初めてのコンサルティングのオファーとなったとのことです。 

*5:ただ、日本の産業界においても、IT系企業も含めて、新たなデミング博士の考え方を取り入れることで、 業績改善・業績向上に繋げている企業もあるようです。 

*6:コラム 中小企業をめぐる冒険 の vol.2 として、2012年6月1日に、 「日本におけるデミング博士の過去・現在、そして・・・」を公開しています。 そこでは、デミング理論の中身をより的確に捉えるために、その前段階として、 デミング理論には「品質管理の具体的技法・活動」「経営哲学(経営・組織・思考原理)」という2つの側面があると捉えた上で、 「日本において博士の存在・理論がどのような経緯を経て現在どのような認識となっているのか」 という視点でまとめています(2012年06月25日再構成)。
 ※2012年06月25日追記 

*7:いくつかのリンクの追加、脱字の修正などを行いました。
 ※2015年02月26日追記

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