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DIARY :: AROUND THE CORNER :: 20110630001
「未来」への意思が「意味」を見い出す - V・E・フランクル
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ヴィクトール・E・フランクルという心理学者については、
数カ月前、別件でネット検索していた時に、まったく偶然に出会った情報がきっかけで気になっていたところでしたが、
再読していたダニエル・ピンク著の『ハイ・コンセプト』の中にも彼についての言及があったので、(*1)
「これは読まねば」ということで、早速、読むべき著作を Amazon の検索でリストアップしてみました。
そこで、彼の著作としては『夜と霧』しか知らなかった私が非常に驚かされたのは、
『意味への意思』『「生きる意味」を求めて』『意味による癒し ロゴセラピー入門』などの著作タイトルから窺えるように、
ヴィクトール・E・フランクルの研究・思索・思想の中核に「意味」という概念がある
という点でした。というのは、私たちは、日常的に、「それには重要な意味があるね」などのように「意味」という言葉を何気なく使っていますが、
私を含めて、記号論者(Semiotician)にとっては、
この「意味」という概念が(「表現」や「記号」という概念と共に)、研究・思索・思想の中核になるためです。
ちなみに、記号論とは、
「表現(シニフィアン)」と「意味(シニフィエ)」が一体化したものとしての「記号(シーニュ)」という考え方を機軸として、
人間や文化についての本質的な理解と、それに基づく新たな文化の生成・創造を志向する文化科学
のことです。(*2)人間や文化についての本質的な理解と、それに基づく新たな文化の生成・創造を志向する文化科学
ということで、私は、具体的な実践技法について記しているであろう『意味による癒し ロゴセラピー入門』については、
彼の研究が自分にとって有用であると判断できればその時にそれを読めばいいと判断し、
まずは、代表作と言える、書店のみすず書房のコーナーに行けば必ず置いてあるといってもいい『夜と霧(池田香代子訳)』と、
「意味」についての基本的考え方を記していると思われる『意味への意思』『「生きる意味」を求めて』の3冊を読んでみたわけです。
彼のそれらの著作から私が得た知見は、非常に簡潔に要約すると、
人間は、本質的に、「意味」を求める存在である。
その人が、自分自身の存在・実存に「意味」を見い出すのは、その人の「未来」を志向する意思によってである。(*3)
つまり、 人は、本質的に「意味」を求める存在であるがゆえに、「未来」を志向する。
「未来」を志向する意思が、「未来」を思い描き、
思い描かれた「未来」が「価値」の基盤となり、その人の存在・実存に「意味」を見い出す。
ということになります。思い描かれた「未来」が「価値」の基盤となり、その人の存在・実存に「意味」を見い出す。
記号論の側から言えば、「人間は、本質的に、「意味」を求める存在である」との彼の考え方の核心は、記号論のそれそのものです。
私は、「記号論は帝国主義的である」との批判があるかもしれないと考えつつも、
彼のいくつかの著作タイトルから想定されたとおり、
ヴィクトール・E・フランクルの、人間を「意味」を志向する存在として捉える考え方は、本質的に、記号論的である。
との認識を持つに至りました。さらに、「意味」を重視する記号論者であると共に、かつ、
時代趨勢予測に取り組むことにより「未来」を考える未来志向主義者でありたいと願う私は、
ヴィクトール・E・フランクルにおいて、普遍的人間性として、
「意味」と「価値」と「未来」との不可分で根源的な関係性に気付かされたわけです。
以上は、彼の理論と記号論との関連性、及び、私との個人的な出会いということになりますが、
このような彼の考え方は、より一般的に、現代の企業経営という観点においては、
(1)組織・人事面:リーダーシップ創出、組織開発、人材開発
(2)マーケティング面:ブルーオーシャンをもたらすような、ユーザー・顧客・生活者・消費者を含めた、より深い「人間理解」
という、2つの領域において、重要な示唆を与えるものと思われます。とすれば、具体的には、前者においては、マズローの「自己実現」やチクセントミハイの「フロー」に加えて、
フランクルの「意味」を機軸とするという方針のもとで(*4)
従業員における「意味」の創出
組織において「意味」の創出基盤となる「未来」としての「企業理念・哲学・ビジョン」の再構築
組織における「意味」の実践としてのリーダーシップの規定・発揮
などの戦略テーマを得ることになります。これらは、ピンクが『ハイ・コンセプト』において、
フランクルに言及している、第二部 6『「モノ」よりも「生きがい」』全体と関連してきます。
後者においては、過去志向の定量的分析に過度に依存したり、それを絶対視するのではなく、
「未来」志向・「意味」志向の考え方を機軸とするという方針のもとで、
ユーザー・顧客における、未来志向の「意味」についての定性的・定質的理解に基づく、新製品・新サービス・新事業の企画・開発
自社コミュニティの一員としてのユーザー・顧客における「意味」の創出による、エンゲイジメントの創造
などの戦略テーマを得ることになります。これらは、ピンクが『ハイ・コンセプト』で言わんとしていることそのものの背景として生じている、
人々全体の「意味」への志向性の強まりという趨勢に対応しています。
『夜と霧』の新訳(2002年)を担当された池田香代子さんによると、
その原題『Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』は、直訳すると『心理学者、強制収容所を体験する』となるそうです。
正直に言えば、少なくとも私に関しては、ヴィクトール・E・フランクルという心理学者を、
彼が抑制的に付けたその原題を文字通り解するような、それを個人的体験に還元するような、非常に狭量な認識で捉えていました。(*5)
しかし、彼の、「意味」を志向する人間理解の理論は、そのような体験以前に、既にある程度でき上がっていたようです。
そして、彼の理論が、彼自身を含めてそのような環境下に置かれた人々の精神の有り様を理解しその助けとなった、という歴史的事実は、
それが、人間の存在・実存に関わる精神の本質的・普遍的な有り様についての真実性を照らしているように思われます。
当エントリーでは、私の守備範囲である記号論や経営・マーケティングなどについて関連付けすることしかできませんでしたが、
現代において、そして、「未来」において、
人類の最も悲惨な歴史的出来事を体験した当事者でありながら、その中においてさえ人間に希望を見い出した彼の思索・思想・理論は、
社会に対して有益な価値の創造を志向する組織、そして、今を生きる個人にとって、ますます重要となっているように思われます。
*1:しかし、私が以前「ハイ・コンセプト」を読んだ時には、
著者ダニエル・ピンクがヴィクトール・E・フランクルに言及していることの「意味」や「価値」について、
まったく認識できていなかったことになります。
ただ、ピンクがフランクルに言及している「意味」「価値」については、あまり指摘されていないように思われます。
*2:ちなみに、「記号消費」と言われる時の「記号」と、記号論における「記号」は同一でありません。
「記号消費」は、内容的には、「ブランド消費」とほぼ同義であると思われますが、
理論的には、ソースティン・ヴェブレンが「有閑階級の理論」で研究した「衒示的消費」という概念に通じていると言えます。
今は昔となりましたが、日本のバブル期には「ブランド消費」のような「衒示的消費」が中産階級全般で見られたわけです。
ただ、批判的な文脈で捉えられることの多い「ブランド消費」には、当時の日本の生活者・消費者において、
経済的余裕を背景としつつも、また、経済的成功への憧憬が含まれていながらも、
「高度化した美的感覚」や「固定化した既存の社会的属性からの脱却」などの
重要な「意味」があったことについては忘れるべきではないと思います。
また、「記号消費」と言われる時に使われる「記号」という言葉の意図を、記号論的に表現すると、
それは、「意味解釈が静的に固定化されてしまった記号」という意味で「信号」としてのシーニュということになるでしょう。
しかし、記号論は、本来的には、そのような言わば「生命力を失った記号」よりも、
「意味解釈が未だ定まらず、動的で豊饒で多義的な揺らぎを孕んだ、生き生きとした記号」という意味で
「象徴」としてのシーニュを対象とし、さらには、そのような「生命力に満ちた記号」としての文化の生成・創造を志向しています。
また、記号論の源流の1つには徴候学があり、その文脈で、前者は「unmarked sign」、後者は「marked sign」と呼ばれます。
*3:ヴィクトール・E・フランクルは、
人生において重要なのは、しかし、意味を与えることではなく、意味を見出すことなのです。
と指摘しています。(『意味への意思』p.25)*4:ヴィクトール・E・フランクルは、「意味」への志向性について、「自己超越」という概念を提示しています。
そして、「自己実現」と「自己超越」との関係について、
言い換えれば、自己実現は目標として設定されるものではなく、
私が人間的実存の「自己超越」と呼ぶところものの副次的結果として生じるものなのです。
と述べています。(『意味への意思』p.14)私が人間的実存の「自己超越」と呼ぶところものの副次的結果として生じるものなのです。
*5:追記*1とも関連しますが、そのような認識が「先入観」として私の目を曇らせ、
ピンクが『ハイ・コンセプト』でフランクルについて言及していたにも関わらず、
彼や彼の理論の重要性についての私の認識を誤まらせてしまっていたように思います。
時代趨勢予測に取り組むために、私は普段より、
「既存のパースペクティブに囚われないようにする」ということを心がけているつもりですが、
『ハイ・コンセプト』の最初の読みでは、私はそれに失敗していたようです。
今回、改めて、認識の偏り・曇り・狭さ・小ささのもつ負の側面に気付かされました。
私自身の、今後の教訓としたいと思います。
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